連載:文キャン前史 第二回
1,「戸山荘」のその後
前回(文キャン前史 第一回)は、文キャン周辺に広がっていた尾張藩下屋敷、戸山荘についてご紹介しました。
当時、戸山荘は風光明媚かつ趣向を凝らした庭園として名高く、多くの将軍や大名達が訪れ楽しんでいました。
しかし、箱根山など一部を除いて、現在の文キャン周辺にその痕跡は見受けられません。江戸時代に人気を博した庭園は、どのようにして消えてしまったのでしょうか?
今回は地図を元に、戸山荘以後の一帯の変化を見ていきたいと思います。
宝暦(1751~1763)頃の戸山荘(『尾張藩江戸下屋敷の謎』より)
橙線が戸山荘の敷地、緑線が現在の戸山キャンパスの敷地
2,戸山荘の衰退―相次ぐ災害―
19世紀半ばになると、かつて優美な景観を誇った戸山荘は荒廃していきます。
1855年には安政の江戸大地震、1856年には大風雨、1859年には火災に見舞われました。
1853年のペリー来航をきっかけに幕府や諸大名は江戸の警備に追われ、庭園を楽しむ余裕がなかったことも一因でした。
1868年、戸山荘の土地は静岡藩に献上され、一帯は農地とされました。