西川美和インタビュー 後編
―今でも作品を練る際には地元広島に帰ると伺ったのですが、上京した入学当時は東京に出たい、東京が良いというような想いが強くあったのでしょうか。
東京が良かったですね。地元の良さももちろんあるんだけど、同時に閉塞感も感じていました。地元が好きで好きでたまらないんだったら、地元にいますからね。「この場所は狭いんじゃないか、もっと広いところに出たい」って思ってたから、やっぱり東京に来たかったです。なんというか、東京のきらびやかな暮らしに憧れるというよりも、”なんでもあり”ってところに行きたかった。そういう意味で、目指すべきは東京だったんでしょう。自分にとってはね。
―それは、子どものころ……早い段階から決めていらしたんですか?
決めてた。中学に入った頃くらいから決めてた。「出て行きたい」って。自分の狭いところから。その想いがとても強かったです。当時は、東京に来ると、なんというか深く呼吸できる感覚がありました。
―雑多な都市だからこそ、寛容であると。
そうですね。「この街にはありとあらゆる可能性があるんだ」と思えたんです。
ただその感覚は、30過ぎると無くなります。どんなに世界が広くても、自分の生きる世界っていうのは決まってくるから。ある意味、世界中どこにいても同じだと思う。それはすごく良いことでもあるんですけどね。
でも、学生の時は関西方面から新幹線で東京に入って行くとき、品川とか有楽町のあたりのビルとかを見ると心が沸き立ちました。「自分のまだ見ぬ未来が広がってるんだな」って。「まだ何をやるとは決めてないけど」、「やるぞ!」。そんな気持ちでしたよ。当時はね。
早稲田はそういう息巻いたやつらが多かったんですよ。地方から出てきて、「一旗揚げてやろう」と意気込む鼻息の荒い人が多かった。それがすごくおもしろかったです。「田舎者だと思われたくない」、もしくは「田舎者の何が悪いんだ」みたいなけんか腰の人たちが多かったような気がします。そういう感情がむき出しなところも早稲田っぽいなって思いましたね。やっぱり、他校—例えば慶応とか青学とは毛色が違ったように思います。
アイデンティティと校風と
―当時も、各大学それぞれが全くちがう校風でしたか?
全然違いましたよ。恰好からなにから違いますよ。だって早稲田は女の子も男の子も薄汚かったもん(笑)。
―東京に数ある大学の中でも早稲田を選ばれたのは、元々はライター志望だったということが大きいのでしょうか。
色んな大学の文学部から色んな著名な方が輩出されているとは思いますが、自分が好きだなと思った作風の人が早稲田の人だったりしたような気がします。物書きに限らず、タモリさんとか、デーモン小暮閣下とか(笑)。好きだなって思う人が早稲田が多かった。
―いわゆる”早稲女”は早稲田の女子を揶揄する言葉としていまだに現役なのですが、西川さんの時代にもすでにそのような呼び名はありましたか?
まだ言われてるの?あんまり好きな言葉じゃなかったな。自分で自分をそういう言葉にくくりつける女の子も良いと思わない。
―イメージというくくりで言えば、以前よりも慶應大学や他大学と悪い意味で比べられてしまうことや、世間から”微妙”な評価を下されてしまうことも増えているように感じています。
早稲田ってそんなに置いていかれてるんですか。でも、それはだめですよ、絶対上げていかないと。早稲田は文武両道なんだから。だから頭は馬鹿になっちゃだめ。絶対に。それは由々しき問題ですね……。
まあ、いろんなことがあるからいいんであって。社会に出ても、勉強ばっかりじゃなくって、社会性とか泥臭いところも知ってるっていうのが早稲田の学生のいいところなんじゃないかな、って思います。でも、そういった個性に学力が伴ってるってところがほかと一線を画すところだとも思うから、がんばってもらいたい!—と、私は勉強してないのにえらそうなことを(笑)
だめですよ、(他校の進撃を)寄せ付けちゃダメ!
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