文キャンアーカイブ

福澤朗インタビュー 後編

– サークル活動などもされていなかったのですか?

1、2年生の時は、カルチェラタン新聞会っていうタブロイド版のミニコミ誌をつくるサークルに入ってました。その新聞は毎年4月に「科目登録号」っていうのを出していて、「この科目が取りやすい」だとか「ここは毎年同じ問題しか出ていない」とか、「ここは代返可」とか「認められない」とかいった諸先輩方から受け継いだ情報を全部まとめた、いわゆる「学生必須バイブル」でした。その企画は今でこそポピュラーになったと思うんですけど、当時は「マイルストーン」よりも「カルチェラタン新聞会」のほうが発行部数が多かったんですよ。マイルストーン・早稲田乞食・カルチェラタン新聞会が三大ミニコミ誌でしたね。

活動費の捻出のために、南門通りとか大隈通り商店街とか、界隈のお店に通って広告出稿のお願いもしていました。でも、いきなり「広告ください」と言っても出してくれないので、発行の直前になったら、部員がそのお店に行って一生懸命ご飯を食べる。それで、「なんか知らないけど最近よく来るわね」みたいな印象をつけておいてから、タイミングを見て「すいません我々こういうものなんですが、もしよかったら、1コマ3000円なんですけれども広告費出していただけませんか」というような感じで。そういう広告取りの活動をしていた記憶があります。

福澤朗さん

当時よく行っていた、というか活動拠点としていたのが、南門通りにある「びおーる」というお店です。今にして思うと、大したもの頼まずに長居して申し訳なかったなと思うんですけど。この間、お店の前を通ったら、アンティークショップだか雑貨屋さんだかになっていましたね。早稲田高校卓球部のOB会とかに呼ばれて学校に行く時に通るんですけど、残念ながらついこの前まであったはずなのになくなっていました。  「びおーる」は喫茶+簡単な洋食屋さんみたいなところで、お父さんとお母さんと娘さんでやってらっしゃいました。2階にちょっとした広間があって、1時間500円くらいで時間貸しをしてくれたんです。畳の部屋にテーブルがあるだけなんですけど、締切が近づくとそこで2~3時間たむろして、わーっと紙を広げながら、ああでもないこうでもないって言いながら原稿を書いてました。

「びおーる」のお父さんは、今で言うガーデニングをやっていて、緑をこよなく愛する穏やかな方でした。折にふれて鉢植えに水を与えるんですよ。ピッチャーみたいなのを持って。「あー、優しいお父さんなんだなー」と思って見ているんですけど、そのままの状態で僕らのコップに水を注ぐんです。僕らは愛されてるのか横着されているのかよく分からないっていう(笑)。「あー来るよ来るよ、あれおれたちの水なんだよな」って。ハンバーグステーキはものすごくおいしかった。今食べたらどうか分かんないですけれども、おいしかった記憶がありますね。あのときは何食べてもおいしかったんでしょうね。

interview

2012.1.5

福澤朗インタビュー 後編

福澤朗さんインタビュー後編。キャンパスを取り巻く早稲田の街での思い出も。