文キャンアーカイブ

文キャンの建物の歴史

7,個人的な思い出(2009)

僕は大学2年の時に宮沢章夫さんの「サブカルチャー論」を受けに初めて文キャンに行ったのですが、その時の記憶が思い出されます。体育館を片目にスロープを上り、細い列柱で立つピロティの下をくぐり抜けると広場があって、33号館が塔のように立っている。スロープ右方の階段の途中には橋が掛かり、(橋は既に解体されていたかもしれませんが)壁にはレリーフがあって、非常に格好良かったのです。授業も面白かったし。今思うに、31,32,33号館はコルビュジエのラ・トゥーレット修道院に似てるような気もします。既存の建物を繋ぐ鉄骨の黒い廊下もお洒落でした。

8,地形を見る

画像:iPhoneアプリ「東京時層地図」より

文キャンは5mほどの高低差があり「2段構えの地形」を成していることが地形図から見てとれます。この高低差とそれを埋めるスロープは文キャンのキャンパス計画を考える上でのキーワードになりそうです。

Ⅸ.おわりに(村野藤吾と33号館)

写真:酒井大輔

この文章の目的は文学部キャンパスの変遷を追うことで特に論も主張も無いのですが、調べていて感じたのは、文キャンかっこいいな、ということでした。具体例をあげると、古い32号館(1949年)と新しい33、31号館(1962年)を繋げてロの字型の回廊を作ったデザインです。古い校舎と新しい建物をうまく調和させているように思えます。村野藤吾は何を想ってこの建物を作ったのでしょうか。

思想家の内田樹さんは「学校の『建築物としての構造』が『学びの構造』の比喩になっている」と言っていました(「内田樹の研究室:学校の怪談ほか」) 。内田樹さんが教鞭を執っていた神戸女学院大学は隠し屋上や隠しトイレなどがありキャンパスが「くらがり」に満ちていたそうです。

隠し扉があるかは分かりませんが、文キャンも「くらがり」に満ちていると僕は思います。それは村野藤吾や菊竹清訓の隠れたデザインかもしれませんし、もしくは利用者がそこを使ってきた履歴が地層のように堆積されているかもしれません。

新入生のような目つきで文キャンを歩いてみれば、きっと新しい発見があるはずです。

写真:酒井大輔

筆者:小林千尋(建築学科4年)
最近の主な活動として、中谷礼仁研究室にて、千年以上前から続く集落のシステムを調査する「持続的環境・建造物群研究(通称:古凡村 or 千年村)」の研究中 twitter ID: @chi__chang

参考文献『村野藤吾建築案内』(TOTO出版、2009年 )『WA 2010』 (稲門建築会、2010年)特にWA2010は執筆の下敷きにさせて頂きました。心より感謝いたします。

column

2012.7.16

文キャンの建物の歴史

文キャンの建物の歴史を、古地図や航空写真を用いてまとめてみた。