文キャンアーカイブ

文キャンの建物の歴史

4,体育館できる(1957)

その後、早稲田大学は入学・卒業式などの式典を行う会場がないことや体育の授業が正科になった事に加え、1957年の大学創立75周年に備えて記念行事・記念事業を行うことになり、1万人収容規模の講堂兼体育館の新設を決定します。大学内では先例のない大きさで、建築学科および施設部のスタッフにより新しい構造の提案を打ち出す動きもあったようですが、検討に時間がかかるため、最も実績のあるダイヤモンドトラス構造にアーチを掛けた現在のカマボコ型の形態に落ち着きました。実は東京オリンピックのフェンシングの試合会場としても利用されています。

ちなみに筆者は受験期に太ってスーツが入らなくなり、入学式に出ていません。

“1957”の数字が記されている

5,「文学部」としての戸山キャンパス誕生(1960-)

(1975年の航空写真。36号館や38号館はない。おそらく南側の細長い茶色い建物が旧17 号館)

国土変遷アーカイブスより

1956年に早稲田大学高等学院が上石神井に移動します。それを受け、1960年の早稲田大学創立80周年記念事業として、文学部専用の新しい校舎群が建設され「文キャン」が生まれました。1962年には教室棟の31号館、そして現在建て替え工事中の33号館が建設されました。村野藤吾が設計した33号館については最後にも触れますが、一見シンプルながら繊細で優雅なデザインは多くのファンを生みました。

6,38号館と36号館(1980-)

1981年に34号館、1992年に写真左の38号館(設計:菊竹清訓)、1999年に右の写真の36号館(設計:久米設計)、2001年に学生会館(設計:久米設計)が建てられ今の姿となります。

38号館(1992年)を設計した建築家の菊竹清訓は「コンプレックス建築をつくりたい」と大学に提案しました。コンプレックスというのは、図書館、食堂、プールという機能の複合だけではなく、人間の行動そのものが相互にコミュニケーションを誘発する空間である…と菊竹は語っています。海外の大学の図書館のようなコーヒーを片手に本を読んだり勉強できるカフェ・ライブラリーの設計を目指したが、管理側からの意見もあり「図書館」としては実現には至りませんでした。しかし、きちんとした部屋でなくとも雨がしのげれば問題がないと考えた菊竹は、学生の交流を活性化するような半屋外空間を設計します。それが現在のインナープラザです。インナープラザは意外に風通りが悪くて夏は暑いですが、ガラス天井から落ちてくる光はとても魅力的ですし、SF感に溢れる空中廊下など数多くの見所があります。

36号館(1999年)は久米設計による設計です。特徴として、地下体操場の屋根が人工地盤の中庭となっています。文キャンは2階レベルで渡り廊下が張り巡らされていますが、その動線ネットワークを取り込みつつ、新しい中庭を生み出しました。「心地良いスケールの囲まれ感」を次世代に繋ぎたいという思いを込めている。と、設計部の山本茂義は語っています。

column

2012.7.16

文キャンの建物の歴史

文キャンの建物の歴史を、古地図や航空写真を用いてまとめてみた。