連載:文キャン前史 最終回
2,「戸山荘」後の文キャン
前回(文キャン前史 第二回)で触れたように、戸山荘が荒廃すると一帯は農地とされました。そして、1873年には軍用地とされます。
1879年の地図においては、文キャンの場所に「正覚寺」というお寺が見られます。しかし、1910年の地図では「運動場」とされており、移転したのか、なくなったのか、その行方はわかりません。
この「運動場」は、現在の文キャンにおける低地部分(32号館から正門にかけての範囲)にあたると考えられます。
<1879年の地図> ※青色部分は陸軍敷地、赤色部分はのちの運動場敷地と考えられるエリア
<1910年の地図> ※青色部分は陸軍敷地、赤色部分は運動場敷地
3,「文キャン」の誕生
「文キャンの建物の歴史」に述べられている通り、敷地は1908年に購入され、1918年に高等学院が建設され、その後校舎は丘の上に移転されました。
はじめ、校舎は「運動場」の位置に建てられましたが、2年目からの生徒数に対応する増築、そして新たな運動場の確保といった必要性が生じました。そこで、土地を所有していた陸軍から、現在の文キャン丘陵部分(32号館より南側)を借り、新たな運動場を設けました。
これにより、現在の文キャンを規定する範囲が誕生したといえます。
その後の校舎の変化については、「文キャンの建物の歴史」をご覧ください。
<1923年の地図> ※青色部分は陸軍敷地、赤色部分は文キャン敷地